春告げ鳥のさえずり

日々と思考と、きっと愛

水底の宝箱

特別お題「今だから話せること

 

 言葉を綴る時間は、夜の海のようだ。

 その日の誰かに言われたことへ抱いた感情や、誰かに届けたかった己の想いとやらはどういったものだったか、反芻する度に波は打ち寄せる。そして大概は、無慈悲に深い藍色の海の奥に潜り込んでしまうことが多い。的確な感情や言葉が波打ち際に打ち上げられてくることは、ごく稀だ。

 

 人は、そんな私の蟠りを「繊細」と名付け、解そうとすることもしばしばあった。

 

「前提条件が多すぎる、なぜそんなに自信を持てないの」

 飲みの席で上司から放たれた言葉に、思わず口を一文字に結ぶ。つまみすら手に取らなくなった私の様子を見て、上司は思わず謝罪を口にする。

「応援したいんだよ、仕事、楽しいって聞いたことないから、自信持てって言いたかっただけでさ。ねえ、そんな考え込まないでさ。夢とか、ないの?」

(仕事のことをこれ以上踏み込まれたら、人生の話になってしまいます。私の夢は、この仕事とは離れたところにあるんです。)

 いつもより早いスピードで押し寄せてきた言葉の波を、打ち消すように、私は梅酒を飲み干した。

「夢とか、よくわからないです」

 心臓辺りがギュギュっと縮んだ気がした。

 

 上司との会話の日から、芋づる式に過去の思い出たちが気泡のように浮かんでは消えた。深海からぷかぷかと浮き出る思い出たちは、沈む宝箱から浮き出てきたものではないかと、薄々予想はしていた。

 

 大学の学部は、文学部と法学部の二択で悩んでいた。就職率を盾に、法学部を選んだ。法律と生活は直結していたこともあり、勉学は楽しかった。けど、物語をノートの端に生み出す頻度は次第に減っていった。私に創作活動は贅沢だと決めつけたのは私自身なのに、代わりと言わんばかりに期末テストの論文やレポートに打ち込んだ。

 

 ごく僅かな数だけ、片思いをすることがあった。ただ同じコミュニティにいれば、友人が好き、好かれているなどと言った類の、いざこざはよくあることだろう。『ハチミツとクローバー』の序盤に出てくる、主人公がデートをした後の吐露に、共感したことを覚えている。あれこれ考えすぎて、思い人とのデートは楽しむことさえ難しかった。

 私は、自分の気持ちに蓋をして、友情を選んだ。友人は社会人になってからも苦楽を語れる貴重な存在となった。これで良かったと思う反面、私は異性に寄せていた私の気持ちを押し殺してきたことを黙認した。

「優しすぎるんだね」

 かつての友人に言われた言葉を鵜呑みにして、そうだ、私に恋愛は向いていないと、言い聞かせた。

 

 本当は、知っている。この喉の奥に詰まったような感触は、胃のむかつきは、心臓辺りに走る悪寒は、涙腺を刺激するほどの「何か」は、水底に沈んだ宝箱に詰め込まれたものは、封印し続けた私の心の叫びだ。

 いつの間にか咄嗟に感情を分析し、思考を発言するという行為に時間を要することになってしまっただけなのに。誰かの瞬発的な感情は掴み取れるくせに。把握した気持ちになっているくせに、自分のこととなると、鈍くなる。鈍いふりをしてしまう。一つ、一つ歳を取るごとに、私は私に対して鈍感になっていく。一つ、一つ歳を取るごとに、私は隠している本音に向き合わなければ、いけないことを悟る。すっかり燻らせて、見えないふりをしてきてしまった、私の本音。私の海に眠る宝箱を引き揚げる時が来る。

 

”作家になりたい”

”文学部に行きたい”

”文章に携わる仕事をしてみたい”

”自分を好きでいたい”

”人でも、趣味でも、私が好きであることに後ろめたさを感じたくない”

 

 ……勿論、今まで歩んできた道に後悔はない。

一辺倒にならなかった分、色んな景色をそれなりに見てこれたな、楽しんできたなという自負はある。大切な人やものごとから愛情を教わって、満たされた経験もある。それでも、ずっと執着してしまっているのは、なぜなのだろうか。本当は、なんて枕詞がぷかぷかと浮かんでくるのは、何故だろうか。

 

 本音に蓋をしたことと同じくらい、それ以上の力で、喜びが蓋を押し返して解放を求めていたからかもしれない。

 

 初めて書いた絵本を、母が喜んで受け取ってくれた。

 社会人になって数年後、かつての片思い相手から、実は伝えられなかった好意が、少し滲んだ文章を、大切に保存して励ましの言葉を読み返していたことがあるのだと御礼の言葉を貰った。

 大好きな友人の暗がりに寄り添えない時、拙く綴ったかつての思い出と感謝のメッセージカードは、予想以上に、友人へ私の想いを届けてくれた。

 

 どんな程度でも、なんでも、やっていいのだ。

 就職率だとか将来の道の傾向がどうであれ、私の進路は私にしか歩めないのだ。どんなにほど遠くとも、好きなことは好きと公言していいのだ。どんなに自信がなくとも、自身があるふりをして、文章を綴り続けてもいいのだ。

 私が、青春と呼ばれる遠い時代に口を噤んでしまった気持ちを、今の私が供養しても、きっといいのだ。

 

 漸く千里の一歩を歩みだしたことを、かつての幼い私に知らせる。

 海の果てにいる過去の私にも、小瓶に入れた手紙はきっと届くだろうと信じて。